1992年中韓国交正常化まで、朝鮮族は、韓国人とは事実上交流が無く、文化大革命により、歴史的な繋がりが無くなって、「韓民族」という意識が少なくなった。中国政府に正式に認定された朝鮮族に限っても、朝鮮族の歴史は明末清初に遡り、少なくとも400年という上限が成立し、決して“清朝末期から100年余り”のような短いものではない。発展に深く関わってきた歴史を持つが、中国が定義する朝鮮族の範疇は、あくまで民族識別工作の結果によるものであって、必ずしも朝鮮民族が満洲にて活躍してきた長い歴史的経緯を反映していない。満洲国の崩壊と朝鮮の独立並びに朝鮮戦争の勃発によって多くの朝鮮人が帰国したが、約100万人が中国内に残留し、これが今日の朝鮮族の起源の一つとなった。清領への朝鮮人の流入は、特に1860年代に朝鮮半島北部で起こった大凶作と、1885年の満洲への移民禁止の撤廃をきっかけに、爆発的に増加した(闖関東)。
行政共同体単位)を指揮管理する朝鮮(高麗)佐領が多数いた。 この「朝鮮族」という現代の呼称は、中華人民共和国政府が国内の少数民族を一元的に管理する方針を固め、それらを「民族」として分類・中国56民族の中で、人口絶対数が減少した民族は朝鮮族と満洲族だけである。当時延辺の人口のなかで朝鮮人が8割以上を占め、彼らの革命精神は非常に強かった。延吉市には、中国語と朝鮮語で教育を行う延辺大学も設置されている。
これに伴い、吉林省南部に延辺朝鮮族自治区が誕生し、1955年には延辺朝鮮族自治州と改名され、自治州の州長には朝鮮族が就任している。中華人民共和国が成立すると、中国共産党は1952年、民族区域自治実施要綱を発表し、55の国内少数民族に自治権を付与した。中華民国成立後、中国国民党の台頭とともに大韓民国臨時政府を正式に認める動きが強まり、この時期の中国内に居住する朝鮮人は「韓僑」と呼ばれるようになった。具体的には、1948年8月に中国共産党遼寧地区委員会が「遼寧を始めとする北東3省に居住する朝鮮民族で、戸籍を有する者は中国市民とし、戸籍の無い一時的居住者は朝鮮僑民とする」という方針を打ち出し、そこから「朝鮮族」と「朝鮮僑民」の区別が確立された。朝鮮では、豆満江を越えた朝鮮人居住地を間島(カンド)と呼び、鴨緑江を越えた朝鮮人居住地を西間島(ソカンド)と呼んだ。
あまりの息苦しさで目を覚ますと後輩の股間が僕の顔に超密着! サッカー ユニフォーム ドイツ 1990年代の中韓国交樹立以降、韓国へ移住または出稼ぎに行った朝鮮族は急増したため、朝鮮族村の高齢化・一方、この時代の朝鮮では農村が疲弊して逃散する農民が多く、これらの窮乏農民が次第に豆満江(中国では図們江)を越えて満洲に入り込み、焼畑などを行うとともに、野生の朝鮮人参の採集などに従事した。 この時は間島地区だけに限らず、満洲全域に様々な職業の朝鮮人が拡散した。 を参照すると、1942年に満洲にいた朝鮮人の人口は約160万であった。 しかしながら、朝鮮族の人口は徐々に2000年代からは中国大陸全土に広がっており、北京、上海、青島などの大都市へ移住していることが背景にある。